2012年1月16日月曜日

つよいこども。

榎田尤利の「夏の塩」「夏の子供」読む。
ボーイズラブカテゴリなのが惜しいくらいに良い本でありました。
自分がなりたいと漠然と思っていたあこがれの人を、本の中に見つけました。 つよいこどもになりたい、つよいこどもになりなおして、つよい大人になっていきたかったのだけど、もうすでに大人になってしまったので、あこがれは現在進行形ではなく、こういう人であったならなあという半分あきらめの入ったものなのですが、主人公の魚住くんに強い憧憬を抱きました。
世の中の基準の、子どもにふりかかる不幸ランキングで、かなり下位になったと思われる「親の離婚」ですが、私を形成するのに、それが及ぼした影響というのはやはり大きいと思っています(両親のいる家の子どもとしての自分がいないので比べようがないのですが)。 世間一般の認識として、その不幸は乗り越えるべきものであり、囚われるものであってはならず、あなたが大切な子どもであることは間違いがないので、そのことを何かできない言い訳にするのは、まったくもって弱い印であると思われているように思います。世間の認識のみならず、当事者の子どももそう思っています。
会社時代、当時の上司に、トチ狂って言い訳をしていたら「おまえ、いつまで親の離婚を(できない)言い訳にしてるねん」と言われたとき、自分でもびっくりするくらい傷ついたのを覚えています。 主人にそのことを話したとき(傷ついたんだよ、という話し方ではなく、そういうふうに言われたんだよ、当たり前だよね…といった感じだったと思います)、「いつまでって、大きなお世話やんな。終わりは自分で決めていいし、終わらせる必要もないと思うよ。そのことを自分の中に持っていてもいいと思う」と言ってくれたのが、非常にありがたかったのです。
誰に頼まれてもいないのに、私は「かすがい」になれなかったと自分を責めていたのです。私がもっと可愛かったら、私がもっとできる子どもだったら、私が綱になって母親を引き止められたかもしれなかった。そういう感情は、離婚した家庭の子どもは必ず思うことなんだと本で読んだり、いちばん大きなことは、自分が親の側になって、離婚はあくまで親の都合であり、子どもはまったく関係ない、むしろ被害者と実感できて、憑き物が落ちていったように思います。長女を生んだ後は、こんなに愛おしい子どもを置いていったのはなぜなんだろう、親自身と私自身の価値において「負けた」ということがつらく苦しくてよく泣きました。しかし長男、次男を生むに従い、その天秤自体が意味のないことだと思えてきて、親が若かったことや、家庭環境を考えて、勢い仕方なかったんだなというところまで来ました。
よわいこどもでいることがイヤで、つよくなろう、つよくあろうとしていた、そのことこそが、どうしようもなく弱いことである象徴なのだと、今は思います。 魚住も最初はよわいのだと思えました。でもよわい自分から逃げない。つよくなろうとも思っていない。ただ大切なものを大事にするためにはどうしたらいいかを考えている。そうやって、しぜんと強くなっていくのです。
つらいことがあっても笑っているとか、人前ではぜったいに泣かないということは、プロセスだからあってもいいと思います。でもそれは、やってるうちに暗示にかかるようなもので、本来の強さではない。大切なものができれば強くなる。愛されたいと思うより、愛したいと思うことが、強さへの一歩なのだと思います。
良質なボーイズラブには「求めてばかり、嘆いてばかり、少ない、守られる」側から、多くを与える側への変換をテーマにしたものがあり、またそういうマンガや小説が読者の指示も高いことを考えると、男と男というのが必要なのではなく、自分を想起させない性を主人公にして、自分の再生、育て直し、娘から女への変化を受け入れるということを求めているのだと思います。そういうの、BL論なんかでは定番に語られているのでしょうねえ。社会人枠で受け入れてくれるジェンダー論なんかを学びに行けば、さくっとまとめてくれていそうな気がしますが、私はあまり論として打たず、なんとなくのぼんやりテーマで、自分のなかにずっと抱えていたいと思っています。

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