2014年4月11日金曜日

久しぶりです。

長らくご無沙汰でした。
放置してるなあと自覚していたものの、なかなかその気にならず、ああもうこれで何かを書くというのは終わるのかなと思っていたけど、単に体力不足、余裕不足だったようで、状況が改善されたらまたその気になりました。めでたい、めでたい。

心に余裕がなかった一番の原因は、娘の受験でした。受験するんは子どもであって私ではないというのは繰り返し唱えていたし、受験が理由で、あとの子ども2人をないがしろにしてはならぬと思っていたのですが、「こうあらねばならぬ」と思い込みすぎないよう平衡をキープしようとするあまり、しんどかった。平素通り、通常運転と思えば思うほど、自分にセーブがかかるというか。
たぶん、受験よ受験なのよーっどうすんのあんたこれで大丈夫なの、あーどうすんのーっとはっちゃけられた方が楽なような気がする。自分の状態をいつも確かめる作業は、なんちゅうか、しんどかったですわ。

でもなんかこれたまたま受験だったからってだけで、この先もずーっとこういうスタンスなような気がする!それくらい子ども大きくなっちゃいました。手を出し声をかけて、かまえるほうが楽だったと気づく。今になって。
何せいつまでも全部しちゃうわけにいかないからなあ。かといって情報不足で決めたことを「あなたのやりたいようにやりなさい」という家でもないんだよなあ…。自分も失敗したところだし、どう伝えるか、過不足ないか、見極めるのはむずかしいし、正解がない。

一番の願いというのは何かと自分でも考える。
成功してほしいのはやまやまだけど、成功って何?と突き詰めると、名声を得ていても不幸せな人はいるし、お金がなくても幸せな人はいる。先日友だちと話してて思ったことがある。コピーライターがぱぱっと書いた味のある絵、主婦の作った実用性の高いキッチン、脚本家の作った地味な映画、が売れるということがある。売れるのが成功、あるいは本望かどうかは置いといて。その道でひた走りの人を差し置いて、ある分野で成功をおさめた人を別ジャンルに引き込んで売るということをするわけですよ。一生売れない本業の人の気持ちはどこへ持っていったらいいの、という話。こみ上げたものを飲み込むには、最終的に本人の仕事に対する愛とか好きとかプリミティブなとこしかないと思う。自分の欲とは別のところでね(オボカッティは好きと欲の見極め間違ったと思う)。

子どもの好きなもの。私から見て向いてるなと思うジャンル。そのジャンルで食っていく(生きていく)方法。そのための道筋。それぞれの課題にすべて分岐点があって、道はひとつではない。親が「一緒に模索」するべきなのかどうかという疑問もある。1人で見つけてこそ本物だとも思わない。
「幸せ」と「楽」は違うということは確実に伝えて、あとは子どもたちの地力にまかせる気持ちはあるのだけど…心配でつい手を出してしまうというのは、結局子どもの力を阻害する、あるいは私の知ってる枠にはめていると思うので、自分の思うようにいったらエエと思うんですが…なかなか子どもというのは、目の前の壁が高すぎると感じると、もっともらしいことを言ってうまーいこと逃れる、自分自身も騙されてしまう言い訳を思いつくもんなんですな。気付きを促して、全力で走れるようにフォローする。健康な体で、しっかりと技術を身につけてるかを見届けるのが、私(親)の役割かなと思ってます。

難しいよな〜。

親が楽しそうに生きてたら、子どもがその背中見て育つとか、そういうのはもうエエねん。私の無念を子どもで晴らすとかそういうのははなからない(無念はあんまりないんです。恥ずかしい過去はあるけど)。いい学歴があれば必ず幸せになるわけではない。でも学歴がないとスタートに立てないジャンルもある。今はまだどんなジャンルに行くのかはわからないから、やっぱり勉強してほしいとつくづく思う。勉強というとしゃちほこばってるけど、自分の頭で考えるためのツールとしての知識がある方がいいと思う。小・中・高の3人、頭にしっかり詰めておくれー!

あー、何書きたいのかわからん。が、とりあえず思ったことを書きました。

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