4月13日、今朝の読売新聞15面、池澤夏樹さんの「被災地を行く」を読み、声を出してないた。
震災後、あふれんばかりのACのコマーシャルの後、これまたあふれかえる「がんばろう」「一緒に」「前を向こう」の洪水に、耐えられない違和感を感じていたのが、今回の池澤氏の文章を読み、自分の違和感が嫌悪だったことがわかった。
「東京の人も不幸になってくれ。そうしたら一緒にがんばる」と罹災した青年が言ったそうだ。自粛している東京の人と同じように、被災地にも禁句があるのだ。それが「がんばらない」。被災者はがんばらないといえない。被災地の人たちにがんばれと言い、がんばると言ってもらって安心するのは、果たして誰なのか。安心をもらいたいのは誰なのか。
「つまり、我々は貧しくなるのだ。よき貧しさを構築するのがこれからの課題になる。これまで我々はあまりに多くを作り、買い、飽きて捨ててきた。そうしないと経済は回らないと言われてきた。これからは別のモデルを捜さないといけない」
自粛はいつか解除になり、そのときに再度かつての経済大国を目指すのだと思っていた。罹災していない人間が経済を回さないとこの国は終わるというのが、経済人たちの言い分なのだが、私は「なんだか普通に生活をして被災者に悪い気持ち」というのではない、別の居心地の悪さを感じている。
いずれ復興して、元通りになるさ、というときの「元」はどこを見ているのかということだ。震災以前にも、この国の経済状態の悪さを嘆き、若者はバブル期の大人を憎み、大人はあの時代を懐かしんでいた。被災地以外の私たちが目指したいのは「震災前」ではなく「あの頃」なのではないか?
一生懸命働いても、復興しないかもしれない、という不安を、どこか真実だと思う自分がいる。こぎれいなCMに象徴される「がんばれ」「みんなひとつ」への抵抗なのかもしれない。
「十年後、この国はよい貧乏を実現しているかもしれない」
という池澤氏の言葉が、ヒントになり、何とも言えないもやもやがあった心に、ひとつ晴れやかでクリアな目標ができたように感じた。価値観の転換を図られているのだ。経済を回して元通り、なのではないのだ。復興の完成品は、心穏やかな人たちの作る、まだ見ぬ「よき貧乏な国」なのかもしれない。
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というふうに思った後に、バブル期に入社し、その後の辛酸もなめた主人と話していると、よい貧乏を目指すということは、体のよい、耳に聞こえのよい、抵抗感の少ない負け方なのかもしれないとも思う。誰に負けるのかわからないが、このままゆるやかに貧乏でも心豊かな生活がいいのだと言い切るのが、非常に危険なことのようにも思う。それはこの国がいったん先進国であったからだ。「進みすぎた」と反省するのが、興隆の中で思うことならいいのだが、打ちのめされ亡くなった後に「あれは一時の夢であって、本来の自分ではない」と思って生きてみても、日本の半分は、以前の豊かさの中で生きている。
格差の起こる国で、心の豊かさを保てるとは思えない。
どちらも、自分の中で正しいと思い、またどちらにも決めかねる。
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